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中華民国の成立につながった辛亥革命の勃発から、10月10日で100年を迎える。孫文の理念はどんな影響を与え、現代にどう引き継がれているのか。1世紀を経た中国と台湾、日本から報告する。
孫文の墓所「中山陵」は中国江蘇省の省都・南京の郊外にある。1925年3月、北京で病死した革命家の遺骸は4年後、この廟(びょう)にまつられた。南京は、アジア最初の共和国、中華民国の首都が置かれた地だ。
陵の近くには孫文の記念館がある。入り口に至る石段の横に高さ3・6メートルの孫文像が立っていた。人々に何かを訴えかけるように右手を差し出している。建立から80年余り、最も古い孫文像の一つである。
「三民主義、博愛、天下為公、どれでもたったの8元(約100円)だよ」
中山陵では猛暑の中、みやげ店の売り子が、孫文の書を印刷した「扇子」を広げて声を張り上げていた。
台湾から来たという40代男性は「孫文先生は国父。一度は(中山陵に)来たいと思っていた」とうれしそうに語り、「三民主義」の扇子で顔をあおいだ。
孫文が新国家の理念にすえたのが、民族(民族独立)、民権(民主制実現)、民生(国民生活安定)の「三民主義」だった。彼の死後、中国国民党を率いた蒋介石が49年、中国共産党との内戦に敗れて台湾に渡ると、三民主義の理念は同地に引き継がれる。大陸反攻を叫び続けた蒋介石政権は「三民主義による中国統一」を旗印に掲げていた。
そんな歴史を考えると共産党政権下の中国で、みやげ物とはいえ堂々と「三民主義」扇子が売られること自体、この100年の変遷を象徴するかのようだ。
もちろん、変化は大陸だけでなく、台湾にも押し寄せていた、(南京 河崎真澄)
■中台分断
「革命尚未成功、同志仍須努力…」(革命未だ成らず、わが同志はなお努力すべし…)
今月2日、台湾・台中市で開かれた与党、中国国民党の全国代表大会。「中華民国国歌」(通称・三民主義)の斉唱後、孫文の巨大な肖像画の前で、同党主席として馬英九総統が読み上げたのは、孫文の遺言だった。大会の恒例行事である。
中華民国は1912年1月、臨時大総統の孫文のもと南京で成立した。台湾当局は今年、経済・文化などさまざまなジャンルで「民国100年」の記念行事を開催中だ。来年1月の総統選で再選を狙う馬総統は、こうした行事に積極参加し、台湾人の「愛国心」に訴えようとしている。
「でも、あれは外来政権の行事。興味はない」
野党・民主進歩党(民進党)を支持する本省人(台湾籍)が批判するように、住民の8割超を占める本省人の一部は、国民党政権の「中華民国」について外省人(中国大陸籍)主体の政体とみなし、一連の行事には冷淡だ。民進党が政権を奪取した2000〜08年の間、国民党が野に下ったことで「中華民国」や「国旗」「国歌」の影が薄くなったという事情もある。
「1990年代半ばまで、映画館では上映前に国歌が流れ、全員起立したものです。最近の大学生に話すと目を丸くしますが…」(30代の台北市民)
今や、台湾の街からは「反攻大陸」「統一中国」のスローガンが消えた。かつて大学の入試科目だった「三民主義」も学校教育での重要度が下がり、「公民」の授業に組み込まれてしまっている。「三民主義による中国統一」を掲げた蒋介石元総統が生きていれば「わが同志よ なお一層努力すべし」とでも言いたくなるような心境だろう。
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1911年10月10日、現在の中国湖北省の省都・武漢で、革命の火の手が上がった。辛亥革命の勃発である。
清朝の将軍だったが革命軍に寝返り、後に中華民国大総統に就任した黎元洪(れい・げんこう)の生家が武漢近郊、大悟県黎家河村にあった。古びた小さな家屋が並び、年配の女性が水牛を引いて田んぼを耕す寒村の光景が広がっている。
貧困県に指定された大悟県黎家河村の平均収入は毎月300元(約3650円)未満。6学年で約60人の児童が通う小学校は、村役場の一部を教室に使う。地元政府から支給される教育資金では足りず、出稼ぎ労働者と村幹部の寄付などで維持されている。
両親が出稼ぎ労働者で、祖父母と生活している児童がほとんどだ。
「村の私塾で学んだ黎元洪は、19歳の時に難関の北洋水師学堂(海軍兵学校)に合格し、チャンスをつかんだ。教育格差がこのまま広がると、今後、農村から二度と黎元洪のような偉人は生まれなくなる」。村の幹部はため息をついた。
革命、未だ成らず−。25年、軍閥が割拠し中国統一に向けていばらの道が続く中で残した孫文の遺言も、革命を三民主義に置き換えてみると、現代でも十分、中国で通じる言葉になる。
しかし辛亥革命の“聖地”、武漢が100年の節目に期待するのは違うところにあった。
内陸部に位置する武漢は上海など沿岸部に比べ発展が遅れていたが、ここ数年、政府の内陸部重視政策で急成長。「辛亥革命100周年は北京五輪や上海万博のような都市発展のチャンスだ」。同市の建設関係者の鼻息は荒い。
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武漢では今、10月のオープンを目指し「辛亥革命博物館」が整備されている。館内に日本のコーナーも設置される見通しだ。
革命には日本からも多くの支援が寄せられたためで、日本のある自治体が出展に向け最終調整を進めている。華僑の多い横浜市や神戸市ではない。中国大陸への窓口だった長崎県だ。
冒頭で紹介した南京郊外の孫文像は、実は中国人が建立したものではなく日本人が寄贈したものである。孫文の理念に共鳴し、「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と、武器・弾薬の調達など経済的に革命を支えた実業家、梅屋庄吉。長崎出身でもある。
今度は中国側が梅屋の功績をたたえ、梅屋庄吉像を日本に贈る計画が進められている。
ただし長崎と革命のつながりは梅屋だけではない。
100年前、革命勃発の報に、長崎は沸き立っていた。(台北 吉村剛史、武漢 矢板明夫)
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